LONG LONG TEXT, A GO

むやみにテキストを下に追加していく場所。

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テキストへ戻れ(02/15/2024)

blogはしばらく前に閉鎖したきりになった。
たまにしか更新しないことを考えると、blogの仕組みを使う意味はあまりない。日記が書きたいわけではないのだ。日記を書きたい欲もない。
最近流行りのクラフトインターネットではないが、テキストはテキストのままで置いておけばいいのではと考える。そうするとPermalinkも特に必要とは考えないし、日付についても同様だろう。追記する場合に日付を付与するほうがいいように思えるが、あまり細かなものであればやはり不要と考える。

Twitterはフロー型なので、長文を置いておく、そしてそれをメンテするのにあまり向いていない。私は書いた文章はメンテすべきだ(できれば)と思っている。また、ネットの文章のよさはそこにあるとも考えている。これは最初にネットにテキストを上げたときから変わっていない。そして「細かな文字数を気にしてテキストを書く」これほどくだらないことがほかにあるだろうか?
短く気の利いた文章を書くのもいい、けれどもだらだらと際限なく長いテキストを置く場所だって必要じゃないだろうか。

そもそもTwitter自体が腐敗してしまったので、なにかを置いておくのに適した場所とは言い難くなった。

かといってblogサービスのトラックバックやコメント欄も不要だし、サイドバーやタグもほぼ不要だろう。アクセスログもカウンターも不要。要するにかつてのテキストサイトの体裁、いやもっと原始的なものに戻そうというだけの話だが、じつはネットにおいてなにかとつながるわけではないサイト(もしくはページ)の意味とはなんだろうか、という根っこのところまで戻る。

かつてテキストサイトだったものにつながりが生まれ、自動化され、さらにはアンテナも作られ、つぎにblog、RSSリーダーなどなど、それからSNSの繁栄期(ここで薬物くさい息を吐く富豪が堂々の参入)が訪れる。
これはかつて自宅の庭でほそぼそと野菜を作っていたところから、半機械化された農業、農業組合、そして大規模農業フェスへと進化していったかのようだけれど、実際には大規模農業フェスのなかで野菜作りをしているようなものであり、今やちょっとした狂気の沙汰でもある。

テキストを書く>>>>>>リンク、もしくはアテンションというところへ戻るのならば、やはり「なぜネットにテキストを置くのか」という問いを考えるべきなのだろう。なぜエディタに書いて、テキストファイルのままにしておかないのか。

リンクもしくはアテンション、これらを欠いた「オープンな場所に置かれたテキスト」とはいったいなんだろうか?
読み手にとってはおそらくゼロ、それはそうだろう。
ここで必要なのは「他者から読まれなければ、注目を浴びなければ意味がない」という俗っぽい価値から離脱することだろう。なによりも自分にとって価値がある、そこへ戻るべきだろう。

いみじくもかつてのblogサービスの一部ではエントリを公開するときに「publishしますか?」と聞いてきたが、ネットに置くということはつまりpublishするということだ。
Publishとは他者に問う以前に、まず自分に問う、ということでもある。そこにはさまざまな問いがありうる。
テキストはpublishによって、あらためて自分に問いかけくる、とも言える。問いかけられつづける、とも言える。
いや、問いかけなどというと問答のようだが、「なんでや」という感覚、それだけでいい。
なにかについて書き、それを自分に問う。疑問を口にする。
たしかにこれ自体、ごく私的な行為にすぎない。だが、それで十分だ。
これは一つのポイントだが、最重要ではないだろう(そんなものは人によりけりだ)。
そしてそのほかのことはもう小さなことだろう。
あとはそれを自分が認め、テキストを書くだけだ。

禅インターネットというもの(02/17/2024)

わざわざテキストを置くためのページを作ったのだけれど、

・シンプルなペライチのページ(cssはあるけど)
・メンテが楽なように、増やしてもせいぜい2枚ぐらいにする
・頭に目次をつける
・日時は適宜いれる
・加筆は随時
・フローでいいようなもの(ツイート的なもの)はSNSに流し、ここには置かない

ここらへんを念頭に置いた。
長めのテキストを置くのが目的なので、テキストを読みにくくするような、注意をそらすような要素はできるだけ排除する(サイドバー、タグなどなど)。

blog的なものは必要ない(テキストを読む用のシンプルな見た目を実現するために、Chrome機能拡張にReaderモード導入のためのものがあったり、Browser自体にReaderモードがあったりするのは皮肉な話ではある)。
blog的でもなく、かつてのテキストサイト的ですらない、「ただテキストを置く」というものに(あえて)名付けるとしたら、禅インターネットとでも呼ぶべきものなのかもしれない。自己への問いかけという意味でも、なにかそれはふさわしいように思えるし、同時にどうでもいい、適当につけた感じもあっていい。
しかしそれはただの名であって、運動でもないし、呼びかけでもない。「便所の落書き」からさえも退行している。進化もなく、新しさもない。 おまけに文化的なところさえあまりない。全裸で寝ている人を指して、文化的とはあまり言わないだろう。
ただなんとなく、もやもやしたものがそこにあるだけ、そしてそれをよしとしておこう。

ところで独自ドメインに置いておくと、死亡なりなんなりでドメイン更新料が停滞した時点でデータはアクセス不可となり、ネットから消えてしまうという問題がある。どこかのWebサービスにデータをバックアップとして置いておくほうがいいのかもしれない。このあたりは今後の検討課題。
[追記]いや、アクセス不可になったとしてそれでなにかが困るかというと、べつに困りはしないのである。この問題について検討するのはやめる。

さらに話は変わる。
書くときはエディタにすべきか、あるいはメモアプリ(スニペット管理アプリとも呼ばれるQuiverやJoplin)にすべきか。
後者であればMarkdownで書いてHTMLに書き出せるので、タグの扱いが便利ではある(今これはQuiverで書いている)。ただなんとなく、エディタのほうが手に馴染んでいるせいか、そちらを選んでしまうところはある。そもそもタグなどほとんど使わないのだし、HTMLモードを使うとタグはショートカットだけで入力できるし。

気がついたらもう1年経っている(04/04/2025)

Markdown記法で書いてObsidianからhtmlに出力、というのができるというので、とりあえずそれを試してみる。しかし、こうやって慣れた記法を使えばどんどん更新するかというと、それはない。出力を絞る意味は入力と比較して考えなければ意味はないが、入力の時間を増やせば出力は絞らざるをえない。しかも出力とはここのテキストだけではないので、こうやってノロノロ更新することになる。
おまけにObsidianからの出力、MDをきちんと拾っていないのであまり意味がない。
Bullet listなどは一応変換してくれるので、そういう使い方はできる。ただ最後の行でおかしな処理になることがある。なぜだ。

それはともかく。

AIのここ1年の進化についてはさまざまな意見がある。生成画像の分野においてはわかりやすく破綻が減り、ただ「それらしい画像」がほしい場合には便利なものとなっている。

おもに文学の分野の著作権については(たとえばLibGenを巡る問題など)ここでは触れない。
AIの創作性について、なにか目新しいことを言うつもりもない。

AIがたとえば長編の小説を書けるようになるのか、という点についてはおそらく書けるようになるだろう。おおまかな破綻を避けられるようにもなるだろう。細部の矛盾についてはおそらく──当分は──解決できないかもしれない。

それが面白いものになるかどうかというと、やはりそれなりに面白いものはできるようになるのではないか。
たとえば映画の脚本で考えてみると、IMDbで7とか8がつくような作品ができるかというと難しいかもしれないが、5や6ぐらいのものはできるようになる可能性は高い。
過去の作品を学習し、またその評価を学習すれば、「面白さ」をある程度は学習することも可能だろう。

ただその「面白さ」は平均的なものとならざるをえない。
出力される「それらしいもの」とはそういうものだし、繰り返すことで平均以上のものが出てくる可能性は上がる。が、それはつまりコスト上昇ということでもある。
(もちろん奇抜なものも作れるが、それは「奇抜」であるだけでしかない。作品のなかの奇抜さというのはそれ単独で存在しても、あまり意味がない)

食品で考えても、それなりの点数(5とか6)の味、口に入れてすぐ吐き出すほどではないけれど、まぁまぁ食べられる、といったものはいくらでも流通している。これらが過去の研究と工場での量産によって作られたものと考えれば、それはAIが作る小説とさほど変わりがないかもしれない。
それは悪いことだろうか?

いや、そうでもない。

たとえばマンガなどでも、作画は得意であっても一貫した物語を作るのが苦手、といった人はいくらでもいるだろうし、そういう人にとってAIはかなり役に立つだろう。点数5の映画脚本をベースに、監督や脚本家が練り上げ、完成度を高めることも可能だろう。おそらく5が6.2になるだけで、観客動員数は劇的に変わる。

おそらくここでも生成画像と同じ問題、実際にある作品との酷似したストーリー、あるいは酷似したスタイルなどの問題が生じると思われる。
生成画像でそれらの問題がどう扱われているかというと、今のところはっきりした法的な問題に発展するというより、あいまいな倫理的問題として扱われているように見える。ひとつにそれは生成画像特有の「スケール(量)」の問題があるからで、ネット上のデマと同様に対処が難しい問題となっている。
例で上げた映画の脚本のようなものであれば、(制作費が大きければ大きいほど)そういった問題はあらかじめ対処されるだろう。

しかしマンガは? あるいは小説は?
これらのものがもし量産されるようになれば(特に電子版)、対処不可能な規模になるかもしれない。
あるいは「賢明な読者」は量産品の洪水のさなかにあっても「すぐれた作品」を嗅ぎ分けつづけるかもしれない。
こういった洪水は市場の混乱を招き、読書体験全般を傷つけ、読書人口を減らすかもしれないし、あるいはよりニッチなところへ手が届くようになるかもしれない。
食品に量産品があれば手作りの品物もあるように、手軽で安全なものがほしければ前者を選ぶ、といった市場になるかもしれない。

ただ「現代は読み手よりも書き手が多い」とはよく言われるが、そういった書き手の多くが長続きしないことを考えると、洪水もそれほど長くは続かないのではないかという見方もできる。

ただ成り行きが気になる人は、これから先行している生成画像の行方をしばらく見ているといいかもしれない。今のところそれは一部(特にストックフォトなど)で脅威となっているけれど、全体としてイラスト業界などが大きなダメージを受けているようには見えない(それらしい画像、という意味ではすでにいらすとやの存在が大きい)。

さて。
作家なりマンガ家なりが注意すべきはAIに創作を肩代わりさせようということよりもっとマシなことがある、ということだ。つまり、以下のような事柄。
・用語の統一
・資料やリソースの管理
もちろん、まずはこれらをAIに利用な形でデータにしなければならないが、そこもAIに肩代わりさせることはおそらく可能になるだろう(今のところそれほど当てにはならない)。
雑多なスクラップじみた資料を体系立てて一つのファイルにまとめられるようにもなるだろう。海外の資料も、もっと効率よく集められるようになるだろう。

個人的にはAIには上記のような雑用をやってほしい(できれば校正もやってほしいが、これは今のところまだ役に立たない)。そうすれば、AIがクリティティブであるかどうか、といったどうでもいいことを検討する余暇さえできるかもしれない。
そういったことの検証はどこかのだれかがいずれやってくれるだろうけど。


© Imura kyouichi